[解説]元寇について少し学ぶ 対馬侵攻編
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元寇について少し学ぶ
対馬侵攻編
管理人(Yayoi KISARAGI) 2020.7.14
待望の『Ghost of Tsushima』は、日本史においては「元寇」または「蒙古襲来」として知られる出来事に基づきます。
その元寇とはなんだったのか。
ここでは、文永の役(1274年)について学びましょう。目次はありますが、上から順に(時系列に)読んでいただく方が理解が深まるかと思います。
なおモンゴル帝国に関しては、別記事「[解説]元寇について少し学ぶ モンゴル帝国編」をご参照ください。
目次
概要
元寇とは、モンゴル帝国(元朝)およびその属国である高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称です。蒙古襲来ともいいます。
- 1274年 文永の役(ぶんえいのえき)
- 1281年 弘安の役(こうあんのえき)
と、それぞれが呼ばれます。これらは、戦が起こった当時の日本の元号に基づきます。
実際のところ、元寇に関する解説はEテレの『歴史にドキリ』が最もわかりやすいです。小学生の学習用に制作されているだけに。
よって、その動画をご案内致します。全10分のうち7分間が元寇についての内容ですが、全部ご覧になってもいいかと思います。
リンク先に飛ばれて、ここにはもう戻ってこられないかもしれませんが、以下にも解説を続けます。
また、漫画を参考にしたい場合は『アンゴルモア -元寇合戦記-』(カドカワコミックス・エース)があります。1 – 10巻が「対馬編」に相当します。
クビライによる勅使
モンゴル帝国5代皇帝クビライは、帝国の属国である高麗を通じて日本について知ります。日本には豊富な富(金)があると聞かされ、興味を持ちます。
クビライは最終的に、元軍を日本へ侵攻させるまでに(失敗も含めて)6度にわたり使節を派遣しました。以下が派遣された年と大まかな経緯です。
なお、当然のことながら、当時の「通信状況」は現在とは全く異なります。人または文書(紙に書かれた情報)が物理的に移動する以外ありません。また、交通手段としては、陸上では馬、海上では船よりも速いものがありません。
以下の解説で重要となる日本の地名位置関係を、現代の地図で確認してみましょう。左が、対馬・壱岐島・太宰府、右が、太宰府と鎌倉幕府(現在の鎌倉市)です。
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第1回使節 1266年
クビライの命により使節が派遣されるも、高麗が日本への渡航の危険性を進言し、事実上中止。
モンゴル帝国の使節は朝鮮半島まで来て引き返しました。
第2回使節 1268年
モンゴル帝国の使節は太宰府へ親書を届ける。日本からの返信は無し。
第3回使節 1269年2月
使節団(75名)がまず、対馬に上陸。日本側は使節団を拒否。
使節団は対馬の島人2名を捕縛。そのまま元に連行。
第4回使節 1269年9月
対馬で捕らえた二人を護送する、という名目で使節団が太宰府に到来。
朝廷(現在の京都)は、モンゴル帝国の要求を拒否する返書を作成。ただし幕府は返書しないことを決定し、使節団は何も持たず帰国。
第5回使節 1271年9月
使節団は100人余りに。目的は相変わらず日本のモンゴル帝国への服従。
大宰府西守護所に到着し、国書を渡す。
日本側は、返書の代わりに日本からの使節団をモンゴルへ派遣(国書は持たず)。1272年、12人の日本使がモンゴル使節団と共に元の首都「大都」へ。しかし、クビライへの謁見は許されず。
第6回使節 1272年4月(または12月)
6度目の使節が日本へ到来。日本からの返書は得られず。
使節を何度も送りながらも、日本を服従させることができなかったクビライは、日本への侵攻を決断。
世に言う元寇の始まりである。
蒙古襲来
度重なる使節団の派遣を行った後、モンゴル帝国は最終的に、1274年(文永11年)10月3日、軍事行動を起こします。
まず、蒙古・漢軍による主力軍は15,000~25,000人。
- 総司令官: クドゥン(モンゴル人)
- 左副元帥(副将): 劉復亨(漢人)
- 右副元帥(副将): 洪茶丘(高麗人)
でした。
高麗軍は5,300~8,000人。
それとは別に、水軍として高麗から
- 726~900艘の軍船
- 27,000~40,000人の兵士(水兵含む)
が出航しました。
10月5日、元軍は対馬に襲来しました。
7、8艘の大型船から約1,000人の兵士が上陸したとされています。
当時の対馬守護代は宗助国(資国)。80騎のほどで陣を構え、応戦しました。彼らは元の兵士や将軍を討つことができましたが、結局、助国をはじめほぼ全滅しています。
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その後、元軍は島民を虐殺、または捕虜として捉えました。
捕虜はまた、クビライの娘や高麗の王に献上されました。これは、奴隷となることを意味します。
異なる戦の様式
元兵と日本兵では戦い方が根本的に異なりました。
当時、日本で武器持ち戦闘ができた者、つまり武士ですが、彼らは誉を重んじていました。よってそれに準じた戦い方になります。戦う前に名乗りを上げ、1対1で刀を交えます(弓も用いることもありました)。
『Ghost of Tsushima』のトレーラにあるセリフもこれに由来していると思われます。
一方、元兵は集団戦を得意とし、さらに弓矢および簡易的な爆弾という飛び道具を用いました。
簡素な船で約2日かけて移動してきた元の兵士たちが圧倒的に優位に立てた理由がここにあると考えられます。
文永の役において、対馬・壱岐・肥前沿岸に甚大な被害が及びました。
元軍はその後、太宰府(博多)へと進行します。
決着と元軍の二次被害
博多湾から上陸した元軍ですが、日本軍の激しい抵抗を受けます。ここで副司令官である左副元帥・劉復亨が負傷するなど苦戦します。
10月21日の朝には、元軍は博多湾から撤退し姿を消していたと記録されています。
文永の役の最終的な決着は、「武力」ではありませんでした。
総司令官のクドゥンは撤退を決断。しかし、ことを急ぎ夜間にそれを行ったため、元軍は嵐に見舞われます。結果、多くの船と兵士が海に沈んだと考えられます(実際に、対馬を含め近辺の海底から、遺物が発見されています)。
当時、博多 – 高麗における航路は、晴天の昼でなければ危険とされていました。また一般的に、嵐により元軍に甚大な被害が及んだとされていますが、季節を考えると「嵐」というのは台風ではなく単なる悪天候であった可能性の方が高いようです。
さらなる戦い
史実では、文永の役の7年後、弘安の役が起こるわけですが、PlayStation ユーザの方は『Ghost of Tsushima』にて、1274年において死闘を繰り広げてください。
いざ、対馬へ!